田沼 意次

 田沼意次に関する情報を掲載しています。

概要

 江戸時代の藩主・旗本です。
 9代将軍・家重、10代将軍・家治に仕え、幕府の側用人や老中として、田沼時代と呼ばれる重商主義政治を行いました。また、相良藩主として、相良城築城や田沼街道の整備なども実施。
 しかし、10代将軍・家治死後、松平定信など反田沼派により、老中を辞任させられ、領地没収などの処罰を受け、不遇な晩年を過ごした人物です。

名 前 田沼意次
読み方 たぬま おきつぐ
別 名 龍助(幼名)
生没年 1719年(享保4年)~1788年(天明8年)
出身地 江戸本郷弓町(現:東京都文京区)

ゆかり

 田沼意次に関係するゆかりの場所や関係する施設などを掲載しています。

相良城址

 田沼意次の領した相良藩の居城跡です。

icon-park相良城址(静岡県牧之原市相良)

牧之原市史料館

 田沼意次や田沼氏を中心に牧之原市の歴史資料や文化財などが展示されています。
 田沼意次の肖像画もあります。

icon-park牧之原市史料館(静岡県牧之原市相良275-2)

勝林寺

 東京・駒込の勝林寺は田沼意次の菩提寺で、田沼意次墓があります。

icon-park勝林寺(東京都豊島区駒込7丁目4-14)

年表

 田沼意次に関する年表・年譜です。

西暦(年号) 年齢 出来事
1719年
(享保4年)
1歳 7月 幕府旗本・田沼意行の長男として、江戸・本郷弓町で生まれる。
1732年
(享保17年)
14歳 7月 将軍・吉宗に初お目見えし、田沼家相続を許可される
1734年
(享保19年)
16歳 徳川家重の西丸小姓となる(蔵米300俵)
1735年
(享保20年)
17歳 3月 家督を相続(知行600石)
1737年
(元文2年)
19歳 12月 従5位下主殿頭に叙任
1745年
(延享2年)
27歳 9月 徳川吉宗が隠居し、徳川家重が将軍となり、意次は本丸小姓を拝命
1746年
(延享3年)
28歳 7月 小姓頭取となる(年100両手当)
1747年
(延享4年)
29歳 9月 御用取次見習(足高1400俵)
1748年
(寛延元年)
30歳 閏10月 小姓組頭番頭、御用取次見習兼務(1400石加増され2000石)
1750年
(寛延3年)
32歳 長子・意知が誕生
1751年
(宝暦元年)
33歳 7月 御用取次となる
1755年
(宝暦5年)
37歳 9月 5000石に加増
1758年
(宝暦8年)
40歳 9月 5000石加増され1万石の大名になる。郡上藩一揆審理のため評定所出席を受命する。呉服橋御門内に屋敷拝領。若年寄・本多忠央・老中本多正珍罷免
11月 遠州相良藩主となる
12月 郡上藩主・金森頼錦改易
1759年
(宝暦9年)
41歳 藩内に「申渡」を行い、養蚕の奨励やハゼの植樹などを指示
1760年
(宝暦10年)
42歳 藩内に「申渡」を行い、倹約の励行や農作業への精進を指示
4月 徳川家重が隠居し、徳川家治が将軍となる(意次は御用取次を留任)
1762年
(宝暦12年)
44歳 2月 1万5000石に加増
1765年
(明和2年)
47歳 4月 家康150回忌日光東照宮法要に参列
9月 5匁銀・鉄銭鋳造
1767年
(明和4年)
49歳 7月 側用人となる(2万石に加増)、従4位下叙位。遠州相良に築城許可。神田橋御門内に屋敷拝領
12月 大坂で家質奥印差配所
1768年
(明和5年)
50歳 4月 相良城築城工事が始まる(~1780年(安永9年)完成)
1769年
(明和6年)
51歳 2万5000石に加増。侍従叙任。側用人兼務の老中格
1772年
(安永元年)
54歳 2月 屋敷類焼で公儀拝借金1万両
5月 老中(兼側用人)となる(5000石加増で3万石)
9月 南鐐二朱銀発行
1776年
(安永5年)
58歳 4月 将軍・家治の日光社参に供奉
1777年
(安永6年)
59歳 4月 7000石加増され3万7000石
9月 一揆禁止令高札掲示
11月 将軍・家治の小松川筋お成りに随行
1778年
(安永7年)
60歳 1月 世子・家基の千住筋お成りに随行
6月 ロシア船が蝦夷地に来て通商を要求
7月 甥・田沼意敦が一橋家家老となる
11月 将軍・家治の本所筋お成りに随行
11月 下屋敷拝領
1779年
(安永8年)
61歳 この年、相良城本丸二重櫓が完成する
4月 世子・家基の葬儀
8月 将軍・家治の大川筋お成りに随行
1780年
(安永9年)
62歳 4月 初めて相良城に入城
8月 大坂に鉄座、江戸・京・大坂に真鍮座を新設
1781年
(天明元年)
63歳 4月 将軍・家治養子の選定を受命
7月 1万石加増され、4万7000石
8月 絹糸貫目改所の設置を図るも、反対の打ちこわしで撤回
12月 息子・意知、奏者番
1782年
(天明2年)
64歳 印旛沼・手賀沼干拓、利根川掘割に着工
天明の大飢饉が発生(~1788年(天明8年))
1783年
(天明3年)
65歳 7月 浅間山噴火
11月 息子・意知、若年寄拝命
1784年
(天明4年)
66歳 3月 息子・意知が、江戸城内で佐野政言に斬られ死去
5月 蝦夷地政策について勘定奉行・松本秀持に指示
6月 孫・意明を相続者に許可
1785年
(天明5年)
67歳 1月 加増され5万7000石になる
2月 蝦夷地調査団出発
12月 米の買い占めを禁止し、豪商に御用金徴収
1786年
(天明6年)
68歳 6月 全国に御用金
7月 関東大洪水
8月25日 将軍・家治が死去
8月27日 老中を辞任させられ、雁間詰に降格となる。印旛沼干拓工事中止
閏10月 石高2万石没収、神田屋敷・大坂蔵屋敷の明け渡し、謹慎を命じられる
12月 謹慎解除
1787年
(天明7年)
69歳 1月 登城し、家斉に拝賀
5月 江戸、大坂などで打ちこわし
6月 松平定信が老中を拝命し、寛政の改革が開始
9月 相良藩士に説諭
10月 石高2万7000石を没収され、隠居・蟄居となる(相続者・意明に1万石を安堵)
11月 相良城が没収
1788年
(天明8年)
70歳 7月 江戸で死去。駒込勝林寺に埋葬

田沼意次の経済政策

 田沼意次といえば、重商主義的な政策を特別なことを行ったような印象もありますが、必ずしもそうではありません。
 商業が発展する中で、新たな政策が必要とされ、同時に田沼意次が行ったことは、新井白石や徳川吉宗の時代から懸案となっていた課題に対して行われたものや、それらの時代から継承された政策を実施しています。

 田沼意次が行った政策として、次のようなものが挙げられます。

  • 米価対策
  • 株仲間の結成
  • 殖産興業
  • 印旛沼開拓
  • 蝦夷地開拓

米価対策

 徳川吉宗は「米将軍」と呼ばれましたが、その時代より幕府にとって、米価安が大きな政治課題となっていました。
 武士の所得は石高で決まるため、米価安は実質的な所得の減少を招き、武士の経済的な困窮へとつながります。また、幕府全体としても、税収の中心は年貢という形で、米に依存していたため、米価安は幕府の税収の減少につながるためです。
 他方、米以外の物については、物価高という状況が生じていました。

 このような点から、田沼意次は、米価対策として、次のような対策を実施しました。

囲籾(かこいまい)

 大名に米を領内に留めさせるという政策を実施。このような政策を行うことで、米の流通量を減らし、米価の引き上げを図ろうとしました。

空米切手の統制

 当時、各藩は大坂の蔵屋敷で年貢の米を保管し、売り出すことで収入を得ていました。しかし、各藩の財政が圧迫してくると、実際の米がないにも関わらず、将来の米で支払う形で、空米切手という空手形を発行し、収入を確保するようになりました。
 このようになると、実際には米がないにも関わらず、見せかけで米の在庫量などが増えるため、米価を引き下げる結果となっていました。

 そこで、田沼意次は、この空米切手の統制を実施。しかし、この空米切手という形で、各藩は財政運営を行っていたため、各藩は財政運営に窮することになりました。

買米

 そこで、大坂の豪商から御用金を命じ、資金を調達し、米切手の吸収、各藩への融資を行おうとしました。しかし、170万両の御用金を命じたが、実際は56万両弱しか御用金は集まりませんでした。
 しかも56万両の資金が大坂から吸い上げられたため、商人から諸藩への融資は滞ることになり、諸藩の財政運営に支障を期すことになり、結局は中止されることになりました。

株仲間の結成

 田沼意次というと賄賂政治というイメージがあり、その根本には、この株仲間の結成という政策があると思われます。

 ただ株仲間を結成させ、その商人に独占的な権利を与えるという政策自体は、新しいものではありません。初めて株仲間の結成を行ったのは、8代将軍徳川吉宗です。
 商人勢力が興隆する中で、物価の安定化を図るために、株仲間の結成が行われました。

 そして田沼意次もこの政治を継承し、株仲間の結成を進めたのです。ただ徳川吉宗と異なるのは、幕府財政が悪化する中、この株仲間から運上金や冥加金を徴収するという新たな税制を導入したことです。

殖産興業

 当時の幕府にとって、上記のように米の物価安、その他の物の物価高という問題がありました。また、中国と交易が行われていましたが、その結果、国内の金銀が流出するという問題もありました。
 そこで、新井白石や徳川吉宗の頃から、輸入品の国産化を図ろうとしていました。

朝鮮人参

 朝鮮人参は朝鮮や中国から輸入していましたが、徳川吉宗が国産化を図り、1728年(享保13年)に栽培に成功。田沼意次は、その普及に努めることになります。

白砂糖

 砂糖自体は、奈良時代よりありましたが、戦国時代の南蛮貿易で、洋菓子とともに砂糖は普及し、食されるようになっていました。しかし、国内で製造することはできず、白砂糖は中国やオランダからの輸入に頼っていました。

 そこで幕府では、享保の改革のころより、甘藷の栽培などを行なわれ、田沼意次も、甘藷の育成・砂糖製造の国産化を図り、金銀の流出を防ごうとしました。
 この国産化は大いに成功し、讃岐・阿波などは、明治時代まで甘藷の産地でした。

その他

 印花布、ジャガタラナ、綿羊、オランダ野菜・薬草などの国産化も図ろうとしました。

印旛沼干拓

 田沼意次の代表的な政策として印旛沼干拓が挙げられるが、印旛沼を干拓して新田開発しようという試みは、享保の改革のときからである。1724年(享保9年)に下総印旛郡平戸村の染谷源右衛門が印旛沼の干拓を願い出て、工事に取り掛かっている(ただし資金不足で中断)。

 そしてこの政策を引き継ぎ、田沼意次の時代に、実際に干拓工事が行われることになった。しかし、利根川などの河川が氾濫し、工事は失敗し、そのまま工事は中止となる。

蝦夷地開拓

 当時、蝦夷地は幕府にとって未開の地でしたが、ロシアとの交易、鉱山開発の2つの点から、蝦夷地の開拓を図ろうとしました。
 しかし、この時代は調査だけで終了し、蝦夷地開拓という構想は立ち消えとなります。

 ただこの構想は脈々と幕府の中に受け継がれて、田沼意次死後、1799年(寛政11年)に東蝦夷地の幕府直轄へとつながっていきます。

参考

icon-book大石慎三郎『田沼意次の時代』

icon-book藤田覚『田沼意次―御不審を蒙ること、身に覚えなし』

icon-book深谷克己『田沼意次―「商業革命」と江戸城政治家』


icon-memo他の人物については「人物一覧」を参照してください。

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