高橋 是清

 高橋是清に関する情報を掲載しています。

概要

 大正・昭和時代の第20代内閣総理大臣・大蔵大臣などを歴任した政治家です。
 日露戦争にあっては戦争を行うための資金調達に奔走。昭和恐慌にあっては、大蔵大臣として「高橋財政」という積極財政を実施し、日本経済の立て直しを行いました。

名 前 高橋是清
読み方 たかはし これきよ
別 名 ダルマさん
生没年 嘉永7年(1854年)~昭和11年(1936年)
出身地 江戸芝中門前町(現:東京都港区芝大門)

ゆかり

 高橋是清に関係するゆかりの場所や関係する施設などを掲載しています。

高橋是清翁記念公園

 旧・高橋是清邸宅跡にある公園です。高橋是清の銅像もあります。

icon-park高橋是清翁記念公園(東京都港区赤坂7丁目3-39)

高橋是清翁記念公園
高橋是清翁記念公園


高橋是清翁像
高橋是清翁像

高橋是清邸

 江戸東京たてもの園には、東京赤坂にあった高橋是清邸が移設・展示されています。

icon-park江戸東京たてもの園(東京都小金井市桜町3-7-1)


高橋是清墓所

 多摩霊園内に高橋是清の墓があります。

icon-park高橋是清墓所(東京都府中市多磨町4丁目)

高橋是清の足跡

 高橋是清が日本銀行西部初代支店長であったことから、明治安田生命下関ビル(日本銀行西部支店跡地)に建てられた顕彰碑です。

icon-monument高橋是清の足跡(山口県下関市南部町19-7)

年表

 高橋是清に関する年表・年譜です。

西暦(年号) 年齢 出来事
1854年
(嘉永7年)
0歳 江戸芝中門前町(現東京都港区)に誕生
1864年
(元治元年)
10歳 横浜のヘボン夫人家塾で学ぶ。
1867年
(慶応3年)
13歳 渡米するが、オークランドのブラウン家に売られる
1868年
(明治元年)
14歳 帰国
1885年
(明治18年)
31歳 特許所長就任
1889年
(明治22年)
35歳 官僚を辞め、銀鉱事業のためペルー渡航
1890年
(明治23年)
36歳 鉱山が廃坑であることが分かり、帰国
1893年
(明治26年)
39歳 日本銀行支配役・西部支店長就任
1899年
(明治32年)
45歳 日本銀行副総裁
1904年
(明治37年)
50歳 日露戦争が始まり渡米英し戦費の調達
1911年
(明治44年)
57歳 日本銀行総裁
1921年
(大正10年)
67歳 原敬暗殺で、内閣総理大臣・政友会総裁
1922年
(大正11年)
68歳 高橋内閣総辞職
1927年
(昭和2年)
72歳 昭和金融恐慌が起こり、大蔵大臣に就任
1936年
(昭和11年)
81歳 二・二六事件で死去

(※)年齢は、数え年ではなく満年齢

高橋財政

 高橋是清を語る上で重要なのが、「高橋財政」という経済政策です。
 昭和初期、昭和恐慌の状態にあった日本経済を復活させました。

背景

 昭和初期、国際社会が金解禁(金本位制の復活)を実施する中で、日本においても、金解禁が経済上の1つの懸案事項となっていました。それに着手したのが、浜口雄幸を総理とする浜口内閣です。

 金解禁を実施し、金本位制を復活させるにあたり、為替相場を決める必要があります。当時の為替相場においては、実質的には、円安状態にありましたが、浜口内閣では旧平価(昔の為替相場)の円高の水準で金本位制を復活させようと考えました。

 そのため、金融・財政においてデフレ政策を行い、実質的に円高になるようにし、金解禁を実施しようとしました。
 しかし、このようなデフレ政策や金解禁の断行により、日本経済は不況になり、浜口雄幸首相も銃撃されるなどし、高橋是清が再び蔵相に就任しました。

内容

 高橋財政として、次のようなことを実施し、日本経済を復活させました。

①金輸出の再禁止
 金解禁により円高状態となり輸出が減少していたため、金輸出を再禁止し、円安に誘導し、輸出拡大を図りました。

②財政支出拡大
 デフレ状態にあった日本経済において、軍事費や時局匡救費(農村救済事業)などの財政支出を拡大しました。

③日銀引受による金融緩和
 財政支出を拡大するには、その財源が必要となるため、赤字国債を日本銀行に引き受けさせ、その資金を調達しました。金融緩和を行い、低金利政策を実施し、景気刺激も実施しました。

参考

icon-book大石亨『大蔵大臣 高橋是清―不況乗り切りの達人』


icon-memo他の人物については「人物一覧」を参照してください。

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